中学生作文

例文集

このページは中学生のための作文例文集です。

 

2回目は、「私と日本語」です。

 

問題 

「私と日本語」について、あなたの考えを述べなさい。

 

序論

[一段落目] 自分にとって日本語はどんな存在か、簡潔に示す。

 

本論

[二段落目] 一段落目に提示したことについての説明。

 

[三段落目] 具体的な例や体験を挙げながら、意見を展開する。

 

結論

[四段落目] 結論・まとめ

  

 

例文1

 

日本語が自分にとってどんな存在かなんて、普段の生活の中で考えることはない。でも、外国で、外国人の中にいるとよく分かる。それは、「僕が日本人である根拠」だ。

 

もちろん、「日本人である根拠」といったら、普通は国籍というものになるんだろう。でも、いくら国籍が日本だからといって、外国の言葉を話し、日本語が話せなかったら、周りから日本人だと思われないような気がする。自分でも、自分のことを日本人だと考えることはできないんじゃないだろうか。逆に、外国籍の人でも、その人が普通にペラペラと日本語の話し言葉を話していたら、国籍を聞かない限り、僕はその人を日本人だと思うだろう。いや、外国籍だと聞かされても、やっぱり日本人、少なくとも日本民族ではあるんじゃないかと考える。僕には台湾人と日本人のハーフの友人が何人かいるが、日本語を話している彼らは、やはり日本人にしか見えない。僕も、日本語を話しているからこそ日本人なんだと思う。

 

それぞれの国には、それぞれの国民性とか民族性とか言われるものがある。それは、簡単に言えば文化の違いというやつで区別されるんだろう。文化の違いは、歴史や地理の違いによって異なるのだろうが、それ以上に言葉の違いが大きな文化の違いを生んでいると思う。なぜなら、人間は言葉を使って考えるし、言葉を使って人とコミュニケーションをとるからだ。

僕は小学校の時から台湾に住んでいて、中国語と英語を少し勉強してきたので、それらの言葉と比べた日本語の特徴が少し分かる。今僕は自分のことを「僕」と書いているが、友だちの前では「俺」を使っている。父は、家では自分のことを「お父さん」と言っているが、外では「私」と言っている。中国語なら、僕も父も自分を「我」と言うし、英語なら「I」と言う。とてもシンプルだ。また、日本語には敬語が多い。「です」「ます」だけでなく、尊敬語や謙譲語とがあり、同じ「見る」でも、尊敬語なら「ご覧になる」、謙譲語なら「拝見する」と言う。僕は敬語はあまり使えていないので、偉そうなことは言えないのだが、少なくとも中国人やアメリカ人よりは、仲間内の言葉と外向けの言葉の区別を気にしている。これは、中国人やアメリカ人と比べた日本人のキャラクターに、大きな特徴を持たせていると思う。他にも日本語には、英語や中国語と違って動詞が文の最後の方に来るとか、擬音語や擬態語が多いとか、平仮名・片仮名・漢字という三種類の文字があるといった特徴がある。

 

日本語を使っているからこそ、僕の性格や考え方は日本的になっていく。日本語は、僕にとって、僕が日本人になるためのDNAみたいなものじゃないだろうか。

 

 

例文2

 

私にとって日本語は、日本人とコミュニケーションをとったり、日本語の本や漫画やドラマを見たりするために使う道具だ。

 

私は日本人の父と台湾人の母との間に生まれたハーフだ。子供の時から日本語と中国語という二つの言葉を覚え、使ってきた。小学校の中学年ぐらいまでは台湾の学校に通い、その後は現在まで日本人学校に通っていて、一応どちらの言葉もネイティブとして使うことができる。でも、中国語を話すからといって私は台湾人であるわけではなく、日本語を話すからといって日本人であるわけでもない。中国語は台湾人とコミュニケーションをとり、中国語を聞いたり読んだりするための道具だし、日本語も、日本人と話し、日本語を読み聞きするための道具だ。どちらの道具も、持っていて本当に便利だ。二つの言葉が使えるということは、一つの言葉しか使えない人の二倍、広い世界を持っているような気がする。

 

日本語を話せることが、日本人である証明になると言った人がいる。が、私は違うと思う。英語は世界中で使われているが、英語を使っている人がみんなアメリカ人やイギリス人、カナダ人やオーストラリア人なわけではない。日本人にも英語がペラペラな人はたくさんいる。台湾人にもたくさんいる。英語が話せても、日本人がイギリス人になれるわけではない。台湾にはアメリカなどに移民する人が結構いるようだが、英語が話せる人がみんな移民するわけではない。日本語だって同じだ。世界中のたくさんの人が日本語を勉強して、日本人と日本語でコミュニケーションできたら素敵だが、日本語を話せるようになったからといって、その人たちが日本人になりたいと思うわけではないと思う。日本語を話せても、アメリカ人はやっぱりアメリカ人だし、フランス人はフランス人、ドイツ人はドイツ人、台湾人は台湾人だ。

では、日本語と中国語が話せ、日本人と台湾人のハーフである私は、いったい何人なのだろうか。父と母は、私は日本人であり、台湾人であるという。私もそう思っている。でも同時に、私は日本人でも台湾人でもなく、私なんだと思う。そして、それで困ることはない。私は日本語が好きだし、中国語も好きだ。実のところは、好きなテレビや音楽や漫画は日本のものばかりだし、最近はほとんど日本人の友だちとばかり付き合っていて、私の中では日本語の比重が大きくなっている。だが、今生活しているのは、台湾であり、やはり毎日中国語は使う。どちらが好きかなんて選べないし、選ぶ必要もない。言葉はただの道具なのだから。

 

私にとって日本語も中国語も、私の世界を二倍にするとても大事な道具だ。私は今、私の世界を更に広げられるように、英語という道具もマスターしたいと思っている。

 

 

例文1 

 

 PDF2

 

 

例文2 

 

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