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小論文例文集 このページは中高生のための小論文の例文集です。 23回目は、「リアルな生活」です。 |
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問題 次の文章を読んだ上で、 ➀ 筆者の主張したいことを二百字以内で要約しなさい。 ➁ 現代のリアルな生活について、あなたの意見を自由に書きなさい。 都会に住んでいると、ときおり自分が大地から切り離されているという感覚に襲われる。自然に手を触れることがない。公園で木の葉を一つ摘んで鼻に近づけると、そんな香りからも長いことへだてられいたことに気がつく。しゃがんで土に触れると、その感触でよみがえるのは少年期、人によっては幼年期の記憶でしかなかったりする。それ以後の生活は、どこかリアルではなかったという感慨にとらわれる。そんな体験を拡大して、「都会には人間の暮らしはなく、田園こそ人の住むべき場所だ」と説く人もあとをたたない。ニンジンを食べているがニンジンを作ったことはない。木綿を着ているが木綿を摘んだことも紡いだこともない。木造の家に住んでいても材木一本けずったこともない。そんなことは、近代の流通経済社会を生きるものにとっては避けようもない現実なのだが、時として私たちがそれを罪のように感じるのも事実である。生存の基本を支える衣食住の生産に、直接かかわることのない生活。その日々を「これでいいのか」と不安に感じるのは、都会に生きる者の、ありふれた感情といってもいい。 しかし、それを感傷的に肥大させ、自分ははたして無人島に漂着して生き残れるだろうか、もはや生存のための基本の知恵や技術を失い、ジャングルで生き残るたくましさを失っているのではあるまいか、と見当違いな自己否定に走るのは考えすぎである。私たちの大半は、無人島に漂着する可能性も、ジャングルで一人生きなければならない機会もほとんどないのだから、私たちの生活は、そんな基準で計られるべきではない。 とはいえ、私にも自然への飢えはある。森林を歩くといやされるような思いがこみあげる。しかし、それをすぐさま文明論に結びつけて、現在の生活を否定するようなことはできない。森の生活の方がいいようなことはとてもいえない。森の豊かさを否定はしないが、そこでの生活のマイナスを考えないわけにはいかない。同時に、都会の郊外で暮らす生活のマイナスも否定しないが、そのプラスも思わないわけにはいかない。実際、森が豊かなように、私たちの日常も豊かなのである。住居の一室をのぞいてみても、近代が獲得した豊かさに満ちているといってもいい。それは、たとえばスイッチをひねればつく電灯である。スイッチを入れると電灯がつくということが、どのくらいすごいことか、電球がなく、停電の多い生活が、どのくらい不自由を強いるかを私たちは忘れている。 今でも電球の改良に自分の人生を使っている人はいるし、停電の少ない電気の供給に大半の人生を費やしている人々も少なくない。そして、その人たちの意識の変化次第で、私たちの日常は、たちまち荒廃することもないとはいえない。当然のようにくりかえされている都会の日常は、実のところいかにももろくて危うい。そのもろくて危うい社会を、多くの人々のきまじめさが維持しているのである。私たちは、森の豊かさもろさに敏感であるべきなのと同じ程度に、いま手にしている近代の豊かさもろさに意識的であるべきなのである。家に返りスイッチを入れると電灯がつくことは自然なことではない。それを維持している人々の姿を思い浮かべてみると、私たちの社会が、いかに自分の生活の大半を維持し左右している要素に目を向けていないかに気がつく。 個を守り、他と深くかかわりたくないというのが、いまの人の主流だが、そのようにして守る個のみすぼらしさに気がつき、他を求めはじめている時代でもある。連帯の相手などとはいわないが、私たちの日々を支えてくれている、決して無縁ではない他者の姿の存在を意識化することは、私たちがよりリアルに生きるための一歩になるのではないだろうか。 課題① 筆者の主張についての要約 課題② [一段落目] 対立する意見への譲歩&自分の意見の提示 [二段落目] 意見の展開(自説の根拠・理由) [三段落目] 文章の締め・まとめ 例文<筆者の主張の要約> 自然に対する感覚を持ちにくい現代だが、都会の生活も否定はできない。当然のような都会の日常も、実は多くの人々のきまじめさが維持している。自然の豊かさもろさに敏感であるべき一方で、近代の豊かさもろさにも敏感であるべきだ。見えない所で支えていてくれる他者の存在を意識することがリアルに生きる第一歩である。 例文1 <意見① 筆者の意見に同調的(賛成派)> 確かに、現代はいろいろな問題を抱えている。貧富の差や残酷な犯罪、特に自然破壊などの環境問題は一番大きな問題だ。こうした問題を目にする度に、現代は不幸な時代に見えてしまう。しかし、多くの問題がある一方で、私たちが極めて便利で豊かな生活を送っていることも事実だ。電気、ガス、水道、様々な電化製品に電子機器、自動車や電車、飛行機、豊富な食品、病院や消防、警察、学校、挙げればきりがないほどたくさんのものが当たり前のようにある中で、私たちは生きている。 でも、普段それを意識することはほぼない。例えば、学校の先生や医者や警察官が何か問題を起こしたら彼らのことを非難するのに、問題が起きていない状態を感謝したことなんてほとんどない。以前「食の安全性」についての記事を読む機会があった。企業が起こす食品偽装事件について、もっとチェックを厳しくするべきだという内容だった。安全な食品が食べられるという一見当たり前なことだって、農家や企業、検査をする人など、実際にはとても多くの人たちの誠実な努力によって支えられているということを、それまで私は意識していなかった。だが、毎日どこか遠くで誰かがまじめに働いてくれるおかげで、私たちは生きていられるのだ。 スイッチを押すだけで、お金を払うだけで、何でも手に入るわけではない。見えないたくさんの誰かが、私たちの毎日を守ってくれている。そのことをもっと意識できる人間でありたいと思う。 例文2<意見② 筆者の意見に批判的(反対派)> 確かに、現代は生の自然に触れる機会が少ない複雑な文明社会であり、その文明社会を見えないところで無数の見知らぬ人々が支えているというのは事実で、僕たちはそうした見知らぬ他者に感謝するべきだという点は筆者の言う通りだと思います。電気・ガス・水道・道路・鉄道・インターネット、そうした社会インフラと呼ばれるものが地震などで急に停止してしまう時などに、その事実が改めて実感させられます。しかし、生の自然に触れる機会が無く、社会を支える見知らぬ他者に対する意識がなくても、僕たちはいつだってリアルな現実を突きつけられていると思います。 例えば学校の部活で、一生懸命練習しているのにレギュラーになれなかったり、他の学校に敗北したりした時。例えば好きな異性ができても、その人に相手にされなかったり、その人が他の人と付き合っていたりした時。例えば必死に受験勉強をして良い大学に入れなければ、将来良い仕事に就けず、低賃金のブラック企業で働かなければならない現実をテレビなどで見せつけられた時。そんな、悔しい時、悲しい時、苦しい時に、現実はとてもリアリティを持って僕たちの前に現れます。だからこそ、誇らしい時、嬉しい時、楽しい時には、いっそうリアルな幸福も感じられるのです。 文明社会の日常にリアリティがないなんて、苦しみのない日常が続いている時だけです。インターネットやAIの時代にも、苦しみとともにリアルな現実は現れ、僕たちはその中を生きているのだと思います。 |
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例文<筆者の主張の要約> 例文1 <意見① 筆者の意見に同調的(賛成派)> 例文2<意見② 筆者の意見に否定的(反対派)> |