小論文例文集 このページは中高生のための小論文の例文集です。 22回目は、「勇気と楽観」です。 |
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問題 次の文章を読んだ上で、この文章の要旨を二百字以内で要約し、指導者に必要なのは、筆者の言う通り「勇気と楽観」であるか、ワールドカップ日本代表の監督のような「客観的な自己分析」であるか、あなたの意見を書きなさい。 先日、ワールドカップ日本代表の監督が、「予選リーグを一勝一敗一引き分けで決勝リーグに進みたい」と言うのを聞いた。一勝一敗一引き分けは専門化の目から見ておそらく妥当な目標なのだろう。ただ、評論家ではなく、戦う集団を率いる指導者の言葉として、いちまつの不安を感じないわけにいかなかった。 私は中学高校と六年間、サッカー部に所属していた。自分たちより強いと見られるチームと試合をする時に、仲間が萎縮するのを何度も目撃した。サッカー部における私の主な目的は、バーの上を越してばかりいるシュートを放つことより、この気分を和らげ仲間を鼓舞すること、と内心思っていた。そのため試合直前の円陣で相手チームの弱点をことさらにあざけったり、試合開始後まもなく猛烈なスライディングタックルをしたり、ということを意識的に行った。ひるんでいては実力をまったく発揮できないからである。 プロボクサーなども試合直前には、ひどい恐怖にとらわれるという。「俺は強い。世界一強い」とひたすら自己暗示をかけ続けることでどうにか耐えるらしい。ゴルフのある女子プロは、パターではボールが必ず穴に入ると信じて打つことが大事で、入ればいいなあと思っているようでは絶対に入らない、と語っていた。将棋の世界でも、以前ある名人がこう話していた。勝負においては相手が自分をどう見ているかが重要である。自分が勝ち続けているような場合、相手は多かれ少なかれひるんでおり、大局前からこちらが優位に立っている。 ひるんだら負け、というのはスポーツや勝負ごとばかりでない。数学でも「自分に解けるはずがない」とはじめから思っていたら、解ける問題まで解けなくなる。数学の不得意な生徒は、試験問題を見たとたんに「これは難しい」と思ってしまうらしい。この瞬間、金縛りにあったごとく本当に解けなくなる。数学における最高の賞、フィールズ賞を受賞したコーエン教授は、毎学期異なる分野の講義をし、学期末にはその分野の論文を著すという天才である。その彼が、問題を誰かに出されるといつも「これは簡単だ」と直ちに言うそうである。無論すぐに解けるとは限らないのだが、まずそう言って自分に気合を入れ、問題に圧倒されないための勇気と楽観をふるい起こす。ひるむのはもちろん、悲観的であっても脳は全開しないのである。コーエン教授にしてそうなのである。 米国プリンストン大学のワイルズ教授は先ごろ、三百五十年ぶりにフェルマー予想を解決して世界をあっと言わせた。主に日本人数学者たちによる深い研究成果を巧みに操り、困難な証明を完成させた才能や、八年間もこの予想だけに集中した驚くべき執念は、多くの人々に称賛された。しかし私にとってより印象的なのは、彼の勇気と楽観である。長い年月のあいだ天才秀才たちの挑戦をはねつけてきたフェルマー予想は、私が学生のころ、本気でとりかかってはいけない問題とされていた。それに没頭したため、ほとんど仕事を残さないまま一生を終えた才能ある人々がいくらもいるからである。 亡霊の取り付いたようなこの予想に本気でとりかかったのは勇気である。八年間には多くの挫折があり、そのたびにもうだめかと思ったはずである。この期間はほとんど論文を書けなかったから、「ワイルズは燃えつきてしまった」などといううわさが私の耳にさえ入っていた。それでもあきらめなかったのは尋常でない楽観があったのだろう。勇気と楽観は人間の能力を開花させる絶対条件と思う。 客観的に自己を見つめ分析する、などということをしていたら、まともな人間は早晩、自信を喪失しつぶれてしまう。自己懐疑も同様である。指導者の最大任務は、率いる人々に勇気と楽観を与えることだと思う。 序論 [一段落目] 話題についての要約 本論 [二段落目] 対立する意見への譲歩&自分の意見の提示 [三段落目] 意見の展開(自説の根拠・理由) [四段落目] 文章の締め・まとめ 例文1 <意見@ 筆者の意見に同調的(賛成派)> ワールドカップ日本代表の監督が、「予選リーグを一勝一敗一引き分けで決勝リーグに進みたい」と客観的な自己分析をした。だが筆者は、昔サッカー部にいたころの経験や、スポーツや将棋などの勝負の世界、数学の世界の有名人の話から、ひるんだら負け、自分に気合を入れて勇気と楽観をふるい起こすことが能力を開花させるためには必要であり、指導者の任務も、率いる人々に勇気と楽観を与えることだと考えている。 確かに、自分の身の程もわきまえずに無理な挑戦をして失敗する人はいる。客観的な自己分析をし、自分に何が足りず、どんな努力をするべきなのかを知ってこそ、成功は訪れるのだろう。しかし、それが悲観的な自己懐疑を生み、自分には到底できやしないという思いに陥らせてしまったら、持っている能力も活かされず、初めから成功は望めなくなってしまう。特に指導者は、仲間に希望を持たせ、勇気と楽観を与えられなければ失格である。 自分の経験を振り返って言えることは、できないと思ってあきらめたことは当然ながら実現しないし、いつかはできるだろうと思ってあきらめずに取り組み続けたことは、気づいたらできるようになっていた、ということだ。小さい頃から運動が苦手で、恥をかきたくないためにスポーツから距離を置いていた私は、当たり前のように運動音痴の子供だった。しかし、中学校の時に入った剣道部では顧問の先生に励まされながら練習を重ね、毎日家でも素振りを続けていたら、新入生が入ってくる頃には、試合のレギュラーを務めるまでに力を付けていた。スーパースターにはなれずとも、人間並の力は付けられる。そんな楽観のおかげで、ちょっとしたスター気分を味わうことができた。 人間は、客観的に自分の能力を知っておくことも大切だが、楽観的に勇気を持って挑戦することで、今まで気付くことのなかった隠れた才能を発揮することもある。リーダーには特に、そんな姿勢が大事だと思う。 例文2<意見A 筆者の意見に批判的(反対派)> 予選リーグを一勝一敗一引き分けで決勝リーグに進みたい」と、客観的な自己分析をしたサッカーの日本代表監督に対し、筆者は、率いる人々に勇気と楽観を与えることが指導者の任務だと批判している。サッカー、ボクシング、ゴルフなどのスポーツや、将棋などの勝負の世界だけでなく、数学の難問を解く時も、ひるんだり悲観的だったりすると脳は全開しない。客観的な自己分析や自己懐疑をしていたら、自信は喪失すると言う。 確かに、何かに挑むときには、目の前に立ちはだかるものに圧倒されないだけの勇気と楽観をふるい起こすことが必要だろう。そうしなければ、せっかく持っている能力も活かされぬまま、自分はだめだとあきらめてしまうことになりかねない。しかし、自分の身の程もわきまえずに無理な挑戦をして失敗する人もいる。冷静に客観的な自己分析をし、自分に何が足りず、どんな努力をするべきなのかを知ってこそ、成功は訪れるのではないだろうか。 私は幼少の頃から、勉強も運動も大した努力をせずに一通りこなすことができた。特に勉強は、テストで九〇点以上取るのが当たり前だった。だから、中学校に上がってからも同じようにできるものだと思っていた。ところが、中学校の定期テストは、勉強しなければ点を取れないものだった。慢心していた私は、中学校の始めの頃こそ良かったものの、中二の頃にはもう学年の下位グループにいた。中三に近づくころ、このままでは進学できないのではないかと危機感を抱いた私は、心機一転、塾の模試で自分の弱点を分析し、集中的に苦手分野を学習するなど、自分の学力の低さを自覚して謙虚な努力を続けた。その結果、偏差値は二〇上がり、何とか有名進学校に合格することができた。 人間は、ついつい自己分析をおろそかにし、楽観的な妄想を抱いてしまいがちである。人の上に立つものは特に、自己を冷静に見つめ、足りないところを一つ一つ埋めていく、そんな石橋をたたいて渡るような慎重な態度が不可欠だと思う。 |
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例文1 <意見@ 筆者の意見に同調的(賛成派)> 例文2<意見A 筆者の意見に否定的(反対派)> |